先日、知り合いの飲み会に行った時のことだ。
みんなで飲んでいる約2時間の間、
ずっと2台のスマホを顔をくっつけるようにして
操作している男性がいた。
自分も結構いじっている方だが、基本は仕事のやり取りである。
その男性、2台のスマホをいじりながら酒を飲み、みんなと会話しているのである。
すごい。聖徳太子なみだ。
何故そんなに画面ばかり見ているのかと聞くと色々返信しなくてはいけないらしい。
久しぶりに会っている人達がその場に居たとしても、だ。
その男性が幸せかどうかは置いといて(ま、余計なお世話だな。)
私自身、ソーシャル系で時々面倒な雰囲気を感じてしまうのだが、
それは何故だろうと今回考えてみた。
メールが来たらスグに返信しないといけないとか、去ってしまった人をメンバーから外しにくいとか、またはその逆とか、、、。ま、わずらわしい訳だ。
でも、問題はもっと根深いのではないだろうか?
これは
「存在している自分」
と
「存在させられている自分」
のバランスの問題だと考えた。
「存在させられている」というのは
与えられた名前、与えられた環境、その他もろもろ。
「存在している自分」というのは、その通りの意味で
与えられたものを受け取っている側のことである。
このネットを通じて進んでいくメンタル的な方向はどうもバランスが悪い。
常に、人から ”どういう風に見られているか”
常に、人に ”どういう風に見てほしいか”
と考え続けている。
これはどちらも
「存在させられている自分」
側の思考である。
つまり、本来の「存在している自分」にかけなくてはいけない時間がどんどんすり減らされていく。
こんな事を続けていたら鬱病になるか強迫観念にやられてしまうのではないだろうか。
なにしろ、自分の存在がどんどん環境に依存していくのだから。
たまには何も持たずに、近所を散歩したり、山や海などに行き本来の自分と語り合う時間をつくるのもいいと思うぞ。
最近、涙もろくなったが、歳をとっただけか?
みんなで飲んでいる約2時間の間、
ずっと2台のスマホを顔をくっつけるようにして
操作している男性がいた。
自分も結構いじっている方だが、基本は仕事のやり取りである。
その男性、2台のスマホをいじりながら酒を飲み、みんなと会話しているのである。
すごい。聖徳太子なみだ。
何故そんなに画面ばかり見ているのかと聞くと色々返信しなくてはいけないらしい。
久しぶりに会っている人達がその場に居たとしても、だ。
その男性が幸せかどうかは置いといて(ま、余計なお世話だな。)
私自身、ソーシャル系で時々面倒な雰囲気を感じてしまうのだが、
それは何故だろうと今回考えてみた。
メールが来たらスグに返信しないといけないとか、去ってしまった人をメンバーから外しにくいとか、またはその逆とか、、、。ま、わずらわしい訳だ。
でも、問題はもっと根深いのではないだろうか?
これは
「存在している自分」
と
「存在させられている自分」
のバランスの問題だと考えた。
「存在させられている」というのは
与えられた名前、与えられた環境、その他もろもろ。
「存在している自分」というのは、その通りの意味で
与えられたものを受け取っている側のことである。
このネットを通じて進んでいくメンタル的な方向はどうもバランスが悪い。
常に、人から ”どういう風に見られているか”
常に、人に ”どういう風に見てほしいか”
と考え続けている。
これはどちらも
「存在させられている自分」
側の思考である。
つまり、本来の「存在している自分」にかけなくてはいけない時間がどんどんすり減らされていく。
こんな事を続けていたら鬱病になるか強迫観念にやられてしまうのではないだろうか。
なにしろ、自分の存在がどんどん環境に依存していくのだから。
たまには何も持たずに、近所を散歩したり、山や海などに行き本来の自分と語り合う時間をつくるのもいいと思うぞ。
最近、涙もろくなったが、歳をとっただけか?
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